今回紹介するのは、ロシアのアレクサンドル・ポポフ選手です。
ポポフ選手は、90年台を代表するスプリンターです。90年代に行われた2つのオリンピック、1992年のバルセロナ大会と1996年のアトランタ大会で、50mと100m自由形の2冠を成し遂げています。
29歳で3連覇を狙った2000年のシドニー大会では、50mは6位、100mはピーター・ファン・デン・ホーヘンバンド(オランダ)に敗れ2位、オリンピック2冠3連覇の偉業は成し遂げることはできませんでした。
シドニーではタイトルを取れなかったポポフ選手ですが、3年後のバルセロナ世界水泳で30歳を越しているにもかかわらず50mと100m自由形を制しました。
その勢いで臨んだ2004年のアテネオリンピックですが、33歳となり衰えを隠すことができず、2種目とも決勝に残ることができませんでした。
往年の名選手が、世界が見守る大舞台で、かつての強さのかけらも出せずに散ってゆく姿には、哀愁が漂っていました。
結局、アテネが最後のオリンピックとなりましたが、出場したオリンピック4大会全てで金メダル候補として君臨してきました。
選手寿命の短い競泳選手の中で、ポポフ選手はきわめて異例の存在でした。
以下、ウィキペディアによる彼の紹介です。
アレクサンドル・ウラジーミロヴィチ・ポポフ(Александр Владимирович Попов , Alexander Vladimirovich Popov 1971年11月16日 - )は、ロシアの競泳選手。夏季オリンピックで合計4個の金メダルを獲得し、1990年代に最も活躍した競泳選手の一人である。
経歴
ソビエト連邦のスヴェルドロフスク(現在のエカテリンブルク)で生まれた。
8歳の時に水泳を始めたが、当時は水に恐怖心を抱いていた。
しかし、彼の父が水泳の訓練を受けるように強く言ったため、彼は「以来ずっとやらされた」と語った。
ポポフは当初は背泳ぎ選手だったが、ゲンナジー・トゥレツキー(Gennadi Touretski)がコーチするチームに入ってからは自由形に転向した。以降、彼はコーチについていくため、ロシアからオーストラリアに訓練の地を移した。
ポポフは1992年のバルセロナオリンピックでは50mと100m自由形で優勝し、1996年のアトランタオリンピックでは、前回と同じ2種目で連覇を果たした。
同種目ではジョニー・ワイズミュラー以来の快挙であった。
彼は、アトランタオリンピックの100m自由形で獲得した金メダルをゲンナジー・トゥレツキーに贈り、次のように言った。
「私は優勝というタイトルを持っており、また新聞にも載ったが、あなたも知っているようにゲンナジーはアトランタやバルセロナから何も得ていない。」
「しかし、私はこのメダルの意味が彼にとってどれだけ大きく、そしてこの価値は彼のためにあることを知っている。」
アトランタオリンピックの一ヶ月後、彼はモスクワの露天商人3人と言い争いになった際に腹部をナイフで刺された。
ナイフは動脈を切り、腎臓のうち一つを擦りながら胸膜(肺を覆う膜)に損傷を与えた。その後、集中治療室に入れられ、リハビリに3ヶ月を要した。
翌1997年のヨーロッパ水泳選手権に彼は出場し、50mと100m自由形のタイトルを防衛した。
彼は、「私の魂は傷つかなかった。私の脳も傷つかなかった。傷ついたのは肉体だけだ。」と語った。
2000年6月16日、ロシア選手権50m自由形で21秒64の世界新記録を樹立、この記録は2008年2月イーモン・サリバンに破られるまで約8年間世界記録であった。
しかし、同年のシドニーオリンピックでは、ポポフは100m自由形でピーター・ファン・デン・ホーヘンバンドにタッチの差で敗れ2位、50m自由形は6位となり、50mまたは100m自由形におけるオリンピック史上初の3連覇の夢は破れた。
ポポフ潔く負けを認めた。「世界が終わりになったわけではない」「すべてに勝つことはできない、私は(勝利を)分けなければならない。」
2003年の世界水泳選手権は、バルセロナで開催された。ポポフにとってバルセロナはすべてが始まった原点(バルセロナオリンピック)として、特別であった。
彼は、50mと100mの自由形を再び制した。そして、2004年のアテネオリンピックに出場することを表明した。
しかしアテネの競泳種目出場選手の中で最年長になっていたポポフの衰えは隠せず、100m自由形では準決勝敗退、50m自由形では予選敗退の惨敗を喫する。
2005年2月に引退を表明した。
1999年12月に国際オリンピック委員会(IOC)の委員に選出された。
また、IOCの内部委員会の一つである 「Sport for All Commission(みんなのスポーツ委員会)」のアスリート代表や、「Athlete Commission(スポーツ選手委員会)」の7人のうちの一人を務めた。
「Athlete Commission 」は1996年と2000年のオリンピックで選出され、その後名誉幹事となった。
1996年には、スポーツへの貢献からロシアの名誉勲章を受けた。
また、1996年にはロシア・アスリート・オブ・ザイヤーとヨーロッパ・スポーツ記者連合・アスリート・オブ・ザ・イヤーに選ばれた。
エピソード
50m,100m自由形を泳ぐ選手の中では群を抜いてストロークテンポがゆっくりな泳ぎが特徴であった。それだけ1回のストロークで進む技術が高かったことを示している。
ポポフは原則としてキャップなし・Vパン(ブーメラン型のパンツ)というスタイルでレースに出場することを通していた。
このことについて、「(ハイテク水着は)有力選手や経済的に余裕のある選手だけが着用できるものであり、着用したくてもできない選手がたくさんいる。そのようなものに頼るのはフェアではない。少なくとも、世界中の選手に行き渡るようにならない限り私は着用しない。」という考えを示していた。
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